モチベ革命
※モチベーション革命を読んで、深夜テンションで思ったことをただ綴ってます。
幸せの価値観が昔と変わってきている。
好きな人と意味を見出して、何かに熱中する。
そのような生き方をしている人がキラキラしている今のご時世。
何か大きなことを達成したり、物質的な何かを手に入れた束の間の幸せはそう続かない。
どのような人生を生きたい?
何年後はどうしていたい?と聞かれても。
数年スパンで物事を捉えられるほどマクロな視点のメタ認知もできないから。
一ヶ月先くらいしか自分の姿は見えない。
でも、その自分すらなることができない。
一ヶ月も頑張ることはできないから。
なんでこんなに気持ちが浮かないのだろう。
やっぱり仲間がいないし、熱中もしないし、意味も創造できない。
じゃあどういうことに意味を見いだせるのだろうか。
その意味を見出しともに何かをする仲間は誰なのか、どこにいるのだろうか。
そして熱中するとはどういうことなのだろうか。
好きなこと、やりたいことに直感的に飛び込めずに、〇〇しないといけないからって、自分を騙して何かに追われてきた人だとおそらく同じように悩むんだろうと思う。
何が好きなのか。自分のケースで考えてみた。
多分芸術に触れたい欲が最近すごく出てきてる。特にウクレレ。
あとダンスを再開したいって想い。
ジム仲間と体を鍛えたいってのもあるかな。
あとは創造する行為をできるだけ増やしていきたい。建築、料理、自然の中でキャンプ、ムービーを作る、写真。
仕事としてエンジニアリングという行為が自分にとってベストなのか、わからない。
数学に全く触れてこなかった四年間。プログラミングもオンラインでやる程度。
先生やメンターの存在は大切だと思った。
力がないのに、力が必要なことをしようとするのは難しい。
帰宅部の中学生がフルマラソンを走るように言われてるようなものだ。
今の自分はまさにそんな状態。
帰宅部で家でゴロゴロ、Youtube三昧で仲間も熱意も人生に対する目的意識もない状態から、どうやってフルマラソンで生き生きと走るか。
まずフルマラソンを走る体にならないといけない。
タイムとかはいいからまず完走するということを覚えないといけない。
完走するには完走する体力が必要だ。
その体力はどのくらい必要か。
フルマラソンに必要な体力はわからない。
じゃあハーフマラソンならどうか?
それでもまだきつい。
じゃあ10kmくらいならいけるだろう。
いや最初にそれはきつすぎる。
多分6kmなら200m1分ペースで30分で走れる。
まずはそれを目指せばいいんじゃないか。
まず30分でどれくらい走れるか。
1日目は記録を図るために忍耐だ。
そこの記録からどれだけ理想と乖離があるか。
その理想はどれくらいの鍛錬でたどり着けるか。
まず1週間でいい。やってみよう。
その1週間の進度で、距離感と自分のスピード感がわかるはず。
1週間後に、次は10日後の目標を立ててみるとしよう。
それはギリギリ達成できるかできないか程度。
やってみる、振り返る、そして今度は2週間後。
それを見て振り返る。
さぁ、もう一ヶ月経った。
6kmはどれくらいで走れるだろう。
もし30分で走る体力があるのなら、ここで10kmに挑戦してみてもいいのかもしれない。
でもこの計画を遂行するには上記の三つの要素がいる。無理なら2つ。
仲間。意味。熱中。
仲間。これはジムに行って仲間を見つけるなどの方法がある。
現実的にお金がかかるから、社会人1年目は考えものだ。月5000円くらいの投資ならまぁいいのかもしれない。
意味づけ。なぜ10km走るのか。
これを見つけないと難しい。
大きなものである必要はない、苦しい時にそこに立ち返って踏ん張るような、進むべき指針を与えてくれるコンパスでないといけない。
なぜ10km走らないといけないのか。
ここでダメな意味づけは走らないといけないから走る、ということ。
それは答えになっていない。
集団心理が答えになっているときはあなたの声に耳を傾けていない。
苦しい時もすべての判断基準が集団、他者であり自分の軸ではない。
これを探すのがどうやら一番難しそうだ。
なぜ走るのか。
じゃあ走れるようになった自分はどんな自分か想像してみよう。
まず最初に普通に体力があるだろう。
帰宅部ではなく、中学の陸上部の練習についていけるくらいの力はあると言ってもいい。
次に継続する力。
毎朝走るとすれば、それはとてつもない小さな勇気と習慣力が要求される。
その力は他にも応用される。とても大切な力だ。
でもこれらの物理的、精神的な力を養い鍛えるために走るのか。
いや違う。その程度の意味は他の行為でも見いだせる。
走ることに特有の理由。走るという行為を突き動かす原動力。
意味づけはアップデートされるものだとまず考えよう。
大きな理想は持てない。小さな理想ならなんとか作れそうだ。
なんだろう。
走るのは、何かに向かいたいからだ。
模索したいからだ。
見つけたいからだ。
特徴として走るときにいろいろ考える。数学者の散歩のように。
それも答えの出ない普遍的な問いや哲学的な問いを立てる。
そこから深堀ながら走る。それはゆっくりの時だが。
早く走るときはなぜ早く走る。
単純にタイムを更新したいという自分との戦いか。
自分の限界を突破したい。殻を破りたい。
一番殻を破ったかどうかを測れる行為、それが走るということなのかもしれない。
昨日の自分に勝つ、人生の中では少し抽象度が増し、主観的にならざるをえないが、こと走るということに関してはそうでもないのかもしれない。
客観的なタイムがあるからだ。
よし、目的は定めた。
昨日の自分に勝つ、限界を突破する、また同時に走ることで何かを探求し見出したい。
最終的なゴールはまず30分6kmと10km走破だ。
熱中。
これはいかにいいリズムを作って意識状態から無意識状態に変えるか。
100マス計算をしているとき、バッティングをするとき、音楽に乗ってダンスするとき、外界をシャットダウンしてそのことしか目に入っていない、分散していない状態。
その状態になるには、自分の感覚を研ぎ澄まさないといけない。
その感覚を研ぎ澄ますにはやりたいことをやる、やりたいことを人を巻き込んで楽しくやる、主体的になる。
そうすれば、そうなる。
長くなった。帰宅部フルマラソンの例から深ぼったが、なんだか自分が走りたくなった。
やってみるのもアリかもしれない。
特に意味づけをはっきりさせたから。昨日の自分に客観的に勝つこと。
だけどランニングシューズが大学の体育館のロッカーにあるからまず取りに行かなくては。
仲間も大学の仲間を誘える。
熱意も走るという目標を達成する中での練習における日々の創造、主体性を生み出すことでフロー状態に入るよう頑張ってみる。
なんか、すごく蛇行した文章になったが、なんかシンプルにまとまった。
友達と卒業まで30分6kmという記録を達成するために、毎日昨日の自分の記録を更新する。そのプロセスを創意工夫して、主体的に走るランナー、主人公になる。
ゲームに勝てばいい。