人生の充実感とは何なのでしょう
いきなりすごいテーマから入ってすみません。
初めまして、現在大学3年でテストに追われているとある大学生です。
自分は普段から尽きない思考にふけって意味わからないことに対して俯瞰してみたり、絶望してみたり、答えがわからなくて何となくでその日を終えたりしてる人でございます。
ちなみに一ヶ月前は、成長を前提とした資本主義モデルが限界に達しつつある中でAIを用いてあらゆるものが最終的に最適化された世界ではどうなるのか、そもそも人間は最終的にどこに向かっているのかとかを考えてですね、就活生がよく言う(私が一番言っております)成長したいとか社会をよりよくしたいっていうパンチラインも、突き詰めると自分の生を充足感で埋め尽くしたい、あくまで自分が幸福感を感じる手段にすぎないと思ったりしたんですよね。
あらゆるものは諸行無常で一切のものは移ろい変化していく。この世に永遠のものなどありませんし、人類も永遠と続くものではなく、いつかは途絶えてしまいます。
そんな中で生産性を上げたり、資産を動かして大金を手にしても、最終的に残るものは何なのでしょうか。って考えたりするんですよ。
人間は毎回この一瞬一瞬しか生きれませんし、様々な人生体験をするわけです。
仮に皆が個々生きてる中で本質的に大事なのは、その一瞬一瞬どのような体験をするかに尽きるのではないのでしょうか。
成長を目指して一心不乱に努力する、大好きな友人とただ笑う、美味しいものをたくさん食べる、日常から離れる旅をして新しい世界と自分だけの時間、世界観を持つ。
すべては私たちが悩み、考えた上で行動に移したものです。無駄に思えるような生産性のない日々も無意識的にそれを干しているのではないのでしょうか。
成長・成長・成長。生産性向上、発展、競争。それをしたところであなたはどう感じるのか、それが果たして求める本質なのか、貴重な人生をかけてしたい体験なのか。
自分の納得できる生き方をするのは難しいですし、わからないです。
ただ人の思考に載せられた行動や生き方では絶対に何も残りません。
自分自身で出した解でしか人は納得して生きていけないですから。
最近、自分がしたいことは何なのか、何が好きなのか、何が得意なのか、全くわかりません。
おそらく期待されること、一般社会から基準として求められてきたことだけをやってきたように思えます。すべてが自分から主体的な行動ではなく、しなければならないと言うmustで動いてきました。
明日から完全に大学、もしくは仕事もする必要がなく、何も責任もなしに好きなことをできるとしましょう。(常識の範囲で)
みんな何をすればいいかわからないのではないでしょうか。
ゆっくり体を休める、旅行するとか短期間ではあるでしょうが、一週間、一ヶ月も経てばわからないのではないのでしょうか。
結局、人は社会的責任を求めて仕事を通じて他者貢献し、生きていくというところに落ち着くのでしょう。
ちょっと横道に逸れましたね。
何が言いたいのかというと、人は何に満足するのか、人生の充足感を感じるのかということです。
僕の場合、その答えは自分はこれをやりたい!という情熱に起因した他者貢献ではないでしょうか。
最近自分の時間しかなく、バイトもせず、ただ本読むか勉強するかたまに映画をNetflixで見るかの生活をしていたので、人とつながるということを猛烈に求めています。
おそらく僕みたいな人は多いのではないでしょうか。
忙しさに忙殺されて何のために生きているのか見失ったり、また生産性のない日々を過ごし、心が空っぽに感じてしまう。
変化もなく、情熱もなく、目的意識もなく、かつ友人もいない人生は僕は嫌です。
つまり、情熱を持って、変化にさらされ、目的意識を持って日々を生きていきたいということです。そして人と繋がりたいっていう欲求です。
自分らしく生きたいという欲求です。
1日1日小さな発見を楽しめる習慣を築きたいという欲求です。
自分の渇望する声に耳を傾け、もう少し自分の本当にやりたいことと、他者貢献につながることのバランスを取ってみようと思います。
深夜にいきなり思考もまとまってなく勢いだけで書いたので内容無茶苦茶ですね。苦笑
おそらくあとで見返すとわかりづらい文章だと思います。
でもこれからも思ったこと煩雑ですが書いて整理していきます
ではまた!